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教養 日本史① 古代

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問題 解答 出題数 習得度 苦手度
班田収授と戸籍作成は何年ごとに行われたか。(計帳は毎年作成された)? 6/年:ねん - - -
聖徳太子が仏教交流を掲げ、斑鳩地方に法隆寺を建立するとともに著した経典の注釈書 『三経義疏』(さんぎょうぎしょ):さんぎょうぎしょ - - -
(奈良) 軍団廃止後、軍事の子弟を兵士採用したもの 健児(こんでい):こんでい - - -
聖徳太子が世襲化する氏姓制度の弊害を除去し、有能な人材の登用を図る目的で導入した制度 冠位十二階:かんいじゅうにかい - - -
(奈良) 国が春に稲を貸し、秋に利息をつけて返させる貸出制度 出挙(すいこ):すいこ - - -
(何時代の遺跡か?) 竪穴式石室、横穴式石室、粘土郭、土師器(素焼き)→須恵器(窯焼き)、石塚山古墳、箸塚古墳、茶臼山古墳 古墳時代:こふんじだい - - -
(文化名を答えよ)  末法思想の流布により浄土教が盛んとなって、貴族により阿弥陀堂が建立され、寄木造の阿弥陀仏像が作られた 国風文化:こくふうぶんか - - -
(文化名を答えよ)  薬師寺がこの時期を代表し、律令国家建設期の躍動が見られ、寺院の官立化や鎮護国家的仏教の色彩が出始める 国風文化:こくふうぶんか - - -
(何時代か?) 有力豪族の連合体的性格の政治制度があり、各地の豪族には私有地・私有民が認められていた 大和時代:やまとじだい - - -
(文化名を答えよ)  国分寺や東大寺のように国家の大事業として造寺が行われ、仏像も塑像や乾漆像が好んでつくられ、多くの文化遺産を残した 天平文化:てんぴょうぶんか - - -
(何時代か?) 皇族と藤原氏との政争が相次いだため、聖武天皇は仏教の鎮護国家思想により、国分寺建立の詔・大仏建立の詔を出した 奈良時代:ならじだい - - -
(奈良) 3分の1の口分田が支給された人 女:おんな - - -
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷をふくすること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」 宋書倭国伝:そうじょわこくでん - - -
(何時代か?) 藤原氏は皇室と外戚関係を結んで勢力を伸ばし、摂政・関白となり政権を掌握した 平安時代:へいあんじだい - - -
(文化名を答えよ)  密教が盛んとなり天台・真言の両宗が貴族の信仰を受けて繁栄。寺院は山中に多く、一木造の仏像が好んでつくられた 弘仁・貞観文化:こうにんじょうがんぶんか - - -
(何時代の遺跡か?) 唐古遺跡(奈良県)、登呂遺跡(静岡県)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県) 弥生時代:やよじじだい - - -
・「1世紀のなかば、倭の奴国の王が漢に使いを送り、皇帝から金印を授けられた」 後漢書東夷伝:ごかんじょとういでん - - -
平氏政権は荘園・地行国制など、公家政治の性格を色濃く残す一方で、外交面では(  )を積極的に行うという斬新さも併せ持っていた 日宋貿易:にっそうぼうえき - - -
(何時代の遺跡か?) 岩宿遺跡(群馬県) 旧石器時代:きゅうせっきじだい - - -
最澄が天台宗を開いた寺院 比叡山延暦寺:ひえいざんえんりゃくじ - - -
「紀元前1世紀ごろ、倭人が100余りの小国をつくり、一部の国が朝鮮半島の楽浪郡に使いを送っていた」 漢書地理誌:かんじょちりし - - -
『帝紀』『旧辞』について天武天皇が「誦習」させた舎人は誰か 稗田阿礼:ひえだのあれ - - -
(何時代の遺跡か?) 大盛貝塚(東京都)、加曾利貝塚(千葉県)、菜畑遺跡(佐賀県)、板付遺跡(福岡県)、三内丸山遺跡(青森県)、鳥浜貝塚(福井県)、津雲貝塚(岡山県) 縄文時代:じょうもんじだい - - -
(奈良) 3分の1の口分田が支給された人 賤民:せんみん - - -
(奈良) 調・庸を中央財政へ運んでいた人 運脚:うんきゃく - - -
「太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりはないか・・・」 隋書倭国伝:ずいしょわこくでん - - -
(奈良) 国司が使役した地方労役 雑徭:ぞうよう - - -
(文化名を答えよ)  法隆寺がこの時期の代表。中国の南北朝時代の影響が強く、鞍作鳥により金銅像の仏像が作られた 飛鳥文化:あすかぶんか - - -
聖徳太子の死後に帰国し、国博士となった遣隋使 高向玄理・:たかむこのげんり/僧旻(そうびん):そうびん - - -
空海が真言宗を開いた寺院 高野山金剛峰寺:こうやさんこんごうぶじ - - -
「239年から卑弥呼がたびたび魏に使いを送り、魏の皇帝から親魏倭王の称号と、銅鏡100枚などを授けられた」 魏志倭人伝:ぎしわじんでん - - -
崇徳上皇・後白河天皇の対立に端を発した(A)で、ともに後白河天皇側についた平清盛・源義朝は、乱後、敵対することとなり(B)が起こった。これに勝利した平清盛の地位と権力は急速に高まり、1167年に武士で初めて(C)になった A保元の乱:ほうげんのらん/B平治の乱:へいじのらん/C太政大臣:だじょうだいじん - - -
崇徳上皇と後白河天皇の対立に端を発した(A)で、ともに天皇側についた平清盛と源義朝は、乱後に敵対することとなり(B)がおこった。これに勝利した平清盛の地位と権力は急速に高まり、1167年に武士で初めて(C)にまで昇った A保元の乱:ほうげんのらん/B平治の乱:へいじのらん/C太政大臣:だじょうだいじん - - -
672年、天智天皇の後継を争い、子の(A)と弟の(B)が対立して(C)が起こった A大友皇子(おおとものおうじ):おおとものおうじ/B大海人皇子(おおあまのおうじ):おおあまのおうじ/C壬申の乱:じんしんのらん - - -
聖徳太子は、推古天皇の(A)として政治を行い、物部守屋を滅ぼした(B)とともに中央集権国家化に向けて諸政策を進めた。また、小野妹子らを(C)に派遣し、大陸文化の受容により(D)文化が形成された A摂政:せっしょう/B蘇我馬子:そがのうまこ/C隋:ずい/D飛鳥:あすか - - -
摂政・関白が政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀頃の政治を(A)とよぶ。それらの地位は藤原氏が独占したä、特に11世紀前半の(B)と、その子で、宇治に(C)を建立したことでも知られる(D)の約60年間がその全盛期といわれる A摂関政治:せっかんせいじ/B藤原道長:ふじわらみちなが/C平等院鳳凰堂:びょうどういんほうおうどう/D藤原頼道:ふじわらよりみち - - -
740年に、(A)政権のもとで大宰府に左遷されていた藤原弘嗣が(B)・(C)の排斥を要求して起こした反乱が藤原弘嗣の乱である A橘諸兄:たちばなもろえ/B玄昉:げんぼう/C吉備真備(きびのまきび):きびのまきび - - -
1083年に(A)が奥羽の豪族の清原氏の内紛で(B)を助けて戦ったのが、(C)である A源義家:みなもとのよしいえ/B藤原清衡:ふじわらのきよひら/C後三年の役:ごさんねんのえき - - -
969年に左大臣の(A)が(B)に密告されて大宰府に左遷された事件が(C)である A源高明:みなもとのたかあきら/B源満仲(みつなか):みなもとのみつなか/C安和の変:あんなのへん - - -
740年の藤原弘嗣の乱のような政治的混乱や、飢饉・疫病などの社会不安の下、(A)天皇は、仏教の持つ(B)思想により国家の安定を図り、741年(C)を出して、諸国に国分寺・国分尼寺を作らせた。743年には近江の紫香楽宮で(D)を出した A聖武:しょうむ/B鎮護国家:ちんごこっか/C国分寺建立の詔:こくぶんじこんりゅうのみことのり/D大仏建立の詔:だいぶつこんりゅうのみことのり - - -

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